【アメリカ家庭用ゲームの歴史②】ドンキーコングで一発逆転した任天堂がゲーム市場を復活させるまで

【アメリカ家庭用ゲームの歴史②】ドンキーコングで一発逆転した任天堂がゲーム市場を復活させるまで

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前回はアメリカでテレビゲームが誕生して、ゲーム市場が崩壊するところまでまとめました。

今回は任天堂がアメリカに進出してから、アメリカゲーム市場で圧倒的な王者になるまでです。

『レーダースコープ』の在庫を大量に抱えるも、『ドンキーコング』に変えたところ1981年で一番の大ヒット作に

ゲーム市場の崩壊から少し遡ること1980年に当時社長の娘婿である荒川氏がニンテンドー・オブ・アメリカを開設します。

ニンテンドーは日本の任天堂からアーケードゲームを仕入れて販売する事業を始めました。

『スペースインベーダー』の亜流ゲームである『スペースフィーバー』というアーケードゲームを任天堂から仕入れて販売したところ、人気があったため順調に売れました。

しかし、次の『スペースランチャー』は迫力にかけ、『スペースファイアバード』も期待を裏切る出来と不作が続きます。

アタリの『ポン』や『パックマン』といったメガ級のヒットが欲しいなかでついに『レーダースコープ』が登場します。

『レーダースコープ』は宇宙をテーマのシューティングとありふれた内容に見えて、鮮明なグラフィックスと擬似3D的視点という新しい特徴がありました。

シアトルでのテストマーケティングで好意的な反応を受けて、確信した荒川氏は残りの資源の大半をつぎ込み3,000台ほど発注しました。

まだ筐体が全部届いていない数週間後に再度シアトル地方を訪れたところ、『レーダースコープ』で遊んでいる人は1人もいませんでした。

初回は楽しめるが繰り返しやる価値はないと判断されており、搬入先もほとんど興味がないということを3,000台入荷した頃に知ります。

日本に送り返して新しいゲームを輸入するにはコストがかかり過ぎるため、『レーダースコープ』で動く新しいゲームの開発を日本にお願いします。

(引用:Wikipedia

依頼を受けた日本の宮本茂氏がライセンス契約される予定の『ポパイ』をメインとしたゲームの開発を始めます。

『ポパイ』からヒントを得て天敵ブルートが投げつける障害物を乗り越えて、恋人オリーブを救出するゲームを考えますが、直前で『ポパイ』の使用権が取れなったためキャラクターをすべてオリジナルのものへと変えました。

日本から送られてきたゲーム『ドンキーコング』をプレイしてみると赤い服を着たちびの配管工がゴリラの投げつける障害物を避けてお姫様を助けるという内容でした。

こんなゲームしたい人はいるのかと思いつつ『ドンキーコング』を売る以外に選択肢がなかったので、販売を始めたところあっといまに1981年で一番の大ヒット作となります。

当時、ちびの配管工には名前がついていませんでしたが、ニンテンドー・オブ・アメリカ本社の大家であるマリオ・セガールさんに似ていたため次回作から『マリオ』の名がつきました。

従来の家庭用ゲーム機と差別化するために、『ファミコン』のデザインを大きく変更

アーケードゲーム『ドンキーコング』のヒットにより着々とキャッシュフローを生み出していたニンテンドーですが、家庭用ゲーム機市場は黄金期を築いたアタリが売りに出されるなど崩壊が起きていました。

1983年に発売した『ファミコン』が日本で売上を伸ばすにつれて山内氏からアメリカでも販売するように圧力をかけられましたが、まだアメリカのゲーム産業は崩壊から立ち直れていなかったので拒み続けていました。

1984年に『ファミコン』を家庭用ゲーム機と思えないように見た目を変更することを条件として検討することに合意します。

(引用:Wikipedia

早速、中身は『ファミコン』だけれども、入力用キーボードと音楽キーボード、データレコーダーなどがついてパソコンっぽくした『AVS(アドバンスト・ビデオ・システム)』の開発を始めます。

市場の反応を見ようと冬に行われた家電協会の見本市であるCES(Consumer Electronics Show)でお披露目したところ、反応はよくありませんでした。

しかし、そこで出会った販売代理店を経営するボロフスキーは『AVS』が次のブームの牽引役になると確信していました。

手応えのない荒川氏に対してボロフスキーは市場の飽和などアタリの落とし穴を説明し、出荷量は常に発注量より抑えるといった解決策を示すなど説得を試みていました。

(引用:Wikipedia

また、『ファミコン』のブランド再構築を行なった結果、ソフトは「ゲームパック」、本体は「コントロールデッキ」など先行するゲーム機と差別化するための名称がつけられた『NES(ニンテンドーエンターテインメントシステム)』が出来上がりました。

さらに、ゲームではなく新しいエンターテイメントだという印象をつけるために、ゲーム専用光線銃『ザッパー』や日本ではあまり知られていない対話型ロボット『R.O.B.』といった周辺機器まで用意されました。

準備が整ったのでボロフスキーが積極的に営業をかけたところ、1985年のクリスマス商戦に向けて『NES』を仕入れてくれるところがではじめ、発注量は着々と増えていきました。

ニューヨークに限定して500以上の店舗に置いてもらったところ、小売全体が仕入れた10万台のうち5万台以上が売れました。

この結果からアメリカのゲーム業界が完全に死んでいたのではないことが証明されました。

ゲーム市場の崩壊を繰り返さないために、サードパーティまで含めた品質と在庫の管理を実施

ニンテンドーはその後もロサンゼルスなど販売地域を拡大していき、売上を伸ばしていきます。

家庭用ゲーム機の販売台数は1987年には230万台、1988年には610万台にまで達しています。

ゲームソフトの販売数は1987年には1,000万本、1988年には3,300万本と1台につき5本ほど売れている計算になります。

好調なニンテンドーですが前回の市場崩壊と同じ道を歩まないように、品質と在庫のコントロールを徹底して行っていました。

まず、『Atari 2600』のときはサードパーティが自由に参入してソフトを作れる状況だったので、ニンテンドーはロックアウトチップを搭載して認めていないソフトはNESで動かないようにしました。

ニンテンドー以外のサードパーティがNES向けにゲームを作るためには、ニンテンドーが作成した厳格なライセンス契約を結ぶ必要がありました。

ライセンスは年間5タイトルまでしかリリースすることができず、10%以上の高額なロイヤリティをニンテンドーに払わなければならないといった内容でした。

また、製造前にはニンテンドーのガイドラインに適合しているかがチェックされ、審査に合格した製品のみ販売することが許されました。

これらの製品には正規版であることと高品質を保証する「Original Nintendo Seal of Quality」と書かれたシールが貼られました。

チェッククリア後は製品の製造をニンテンドーに委託する必要があり、製造委託費は全額前払いというかなり厳しい内容もライセンス契約に含まれていました。

これによりニンテンドーはサードパティ製品の価格や在庫数なども管理できるようになり、サードパーティの供給過多による値崩れを防ぎました。

さらに、小売やサードパーティの発注量に対して意図的に一部しか製品を供給しないという作戦も行なっていました。

過剰に供給しがちな傾向にある関係者たちを抑制できるだけでなく、品薄にすることで消費者の購買意欲をかき立てる狙いもありました。

これらの厳しいやり方にサードパーティや小売からは怒りを買いましたが、ニンテンドーの戦略が功を奏して1985年にはほぼ0に近かったゲーム市場をわずか4年で34億ドルまで復活させました。

さらに、ニンテンドーは1990年までに累計3,000万台近くの『NES』を販売しており、これは全米の3世帯に1世帯が『NES』を持っている計算になります。

1990年にはゲーム産業の市場規模は50億ドルまで拡大し、その90%近くをニンテンドーが支配するという圧倒的な時代を創り上げました。

この圧倒的王者にシェア数パーセントの「セガ」が王座を奪おうと戦いを仕掛けていきます。

第3回に続く

参考

書籍『セガ vs. 任天堂 ゲームの未来を変えた覇権戦争

米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)―