【アメリカ家庭用ゲームの歴史①】世界初のゲーム会社アタリが史上最悪のクソゲーで都落ちするまで

【アメリカ家庭用ゲームの歴史①】世界初のゲーム会社アタリが史上最悪のクソゲーで都落ちするまで

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アメリカにおける家庭用ゲームの歴史がアツいので、複数回に分けてまとめていきたいと思います。

Unsplashより

世界初のアーケードゲーム『コンピュータースペース』は操作が難しく、販売台数1,500台とあまり人気は出なかった

1962年にマサチューセッツ大学の院生スティーブ・ラッセルが科学計算用ミニコンを使った世界初のシューティングゲーム『スペースウォー!』を開発したところから始まります。

(引用:Wikipedia

無料で配布していたため、研究者や学生から熱狂的な支持を受けて全米に普及していきます。

当時はまだコンピュータが研究機関にしかなかったため、『スペースウォー!』は一般に出回っていませんでした。

1964年、アタリの創業者であるノーラン・ブッシュネルはユタ大学の学生時代に『スペースウォー!』に出会い、一般の人が簡単にコインを入れて遊べるアーケード形式のコンピュータゲームを考えます。

1968年に入社したアンペックスでテッド・ダブニーと出会い、アーケードゲーム実用化に向けていろいろと試してみたものの、当時のコンピュータでは遅すぎるなど問題があり実現しませんでした。

あきらめきれないブッシュネルはコンピュータを必要とせず、直接テレビに信号を送り操作するアイデアを生み出し、テレビ上に動かせる点を描写する回路を開発します。

1970年、地元の小さなアーケードゲームメーカーであるナッチング社の社員と知り合ったことをきっかけに、ブッシュネルとダブニーはナッチングとライセンス契約を結んで移籍しました。

(引用:Wikipedia

1971年に『スペースウォー!』を元にした世界初のアーケードゲーム『コンピュータースペース』を販売開始します。

しかし、『コンピュータスペース』は説明書を読まないとプレイができないほど操作が難しいうえに、ナッチング社が小さい会社で広告をあまり打てなかったこともあり販売台数1,500台と人気が出ることなく終わります。

ブッシュネルとダブニーはナッチングを退社して世界初のゲーム専門会社「シジジー(Syzygy:惑星直列の意味)」を設立しますが、すでに同じ名前の会社があったため「アタリ」へと変更します。

アタリは二人がよく遊んでいた囲碁から取っており、あと一手で相手の石を取れる状態のことです。

『ポン』はピンボールの4倍(1万2,000台)売れるも類似品に市場の9割を取られてしまう

ブッシュネルはマグナボックス社が開発している家庭用ゲーム機『オデッセイ』のデモンストレーションに参加します。

『オデッセイ』のテーブルテニスゲームを見たブッシュネルはアンペックス時代の後輩で新しく採用したアーラン・アルコーンの能力を調べるために研修として同じようなゲーム『ポン』を作らせます。

アルコーンはブッシュネルにビデオゲームを見せてもらうまで一切見たことがありませんでしたが、数ヶ月で音声やボールのスピードアップ機能など『オデッセイ』よりも面白いゲームを作り上げました。

(引用:Wikipedia

商用で利用するつもりのなかった『ポン』ですが、かなり出来が良かったため地元のバーにアーケードゲームとしてプロトタイプを設置してみることにします。

設置して数日で「止まったので修理しに来て欲しい」と言われ、行ってみるとなんとコイン受けに25セントがぎっしりと詰まっていたことが原因で故障していました。

ブッシュネルはこの大成功を受けて、製造供給ではなく自社で製造して供給することを決意します。

『ポン』は1台につき当時40ドルほど(現在の220ドルぐらい)の利益があり、1973年の末時点で2,500台の注文がありました。

1974年にはバーやレストランなど8,000台以上が設置され、アルコーンによると1万2,000台ほど製造したとされています。

当時、ピンボールの生産台数がよくて3,000台であったため、『ポン』はピンボールの4倍近く売れていることになります。

しかし、特許申請に時間がかかっており、ポンの類似商品が市場に大量に出回りました。

ポン型のゲームは全部で10万台ほど販売されたとされており、このうちアタリ社製は10分の1に過ぎず多くの利益を逃しています。

(そもそも『ポン』も『オデッセイ』のテニスを元にしているため、マグナボックスから特許を侵害しているとして訴訟を起こされていますが...)

家庭用ゲーム機『Atari 2600』を作るために、ワーナーに株式を全売却

1974年にアタリは新たな市場を求めて、家庭用ゲーム機の開発を始めます。

1975年にシアーズと提携して『ポン』を家庭用ゲームとして販売したところ、初年度から15万個も売れる大ヒットとなりました。

その結果、1975年のアタリの売上は4,000万ドル、利益は350万ドルまで一気に増えました。

この頃、ゲーム開発が簡単にできる回路が開発されたことで、多くのメーカーがこぞって家庭用ゲーム機の製造に乗り出します。

(引用:Wikipedia

ゲーム機にゲームソフトを回路に組み込んでいたため、飽きた消費者はゲーム機ごと買い換えていましたが、1976年にソフトが交換できるゲーム機『チャンネルF』がフェアチャイルド社から発売されます。

競合の参入は大きなダメージになるので、アタリもソフト交換ができる新しい家庭用ゲーム機『Atari Video Computer System : VCS(のちのAtari 2600)』の開発を始めます。

アタリがいくら儲かっているとはいえ、家庭用ポンの生産に資金をほとんど使っていたので、『Atari 2600』を製造する資金はありませんでした。

株式公募も考えましたが落ち込む株価のなか期待できなかったため、1976年にワーナー・メディア(当時はワーナーコミュニケーションズ)に株式を全て売却します。

ワーナーの資金をもとに1977年に『Atari 2600』を発売開始したものの、なかなか売れませんでした。

アタリだけでなく他の会社も決定的なソフトがないため人気に火がつかず、マグナボックスやフェアチャイルドなどが次々と撤退していきます。

ブッシュネルが解任されるも『スペースインベーダー』の移植で売上を4億ドルまで伸ばす

ワーナーはテコ入れを行うため繊維会社のマーケティング担当で副社長だったレイモンド・カサールを家庭用ゲーム部門に招集しました。

この頃からアタリの文化が変化して行きます。

ブッシュネルやアルコーンは自分たちを「アタリアン」と呼び、自由な格好・時間・雰囲気で楽しむように仕事をしており、新作ゲームのテストプレイには必ず参加するほどゲーム開発に愛情を持っていました。

しかし、ワーナーの経営陣はゲームに興味がなく、プレイすることはありませんでした。

1979年に『Atari 2600』の不振についてワーナー側と対立したブッシュネルは解任され、カサールがトップに就任します。

カサールは人気のアーケードゲームを『Atari 2600』に移植する権利を排他的に獲得していき、1980年に『スペースインベーダー』を移植したことで着実に売上を伸ばしていきます

1980年のアタリの売上は前年から倍増の4億1,500万ドル、営業利益は5倍の7,700万ドルありワーナーグループ全体の営業利益のうち3分の1をアタリが占めていました。

業績うなぎのぼりの黄金期を迎えるも、史上最悪のクソゲー『E.T.』で大幅に業績が悪化

アタリは1980年から1982年にかけて毎年売上を倍以上に増やし、順調に業績を伸ばしていました。

一方で急激に売上が伸びて生産が追いつかなくなったので、1981年10月に販売代理店に翌年分を一括注文するように求めます。

この一括発注をもとに生産計画を立てていましたが、ハード・ソフトともにアタリが圧倒的シェアを誇っていた状況から少しずつ変化していました。

ハード市場ではマテル社やコレコ社が『Atari 2600』よりも高性能な次世代ゲーム機を発売していきます。

また、『Atari 2600』でソフトを作る会社にアタリは何の制約も設けなかったため、ソフト市場には多くのメーカーが参入していました。

カサールのもとでやりづらくなったエンジニアが次々と会社をやめていき、アタリ製品の品質はかなり悪くなっていたこともあり、1981年に80%あったソフトのシェアが1982年では56%まで低下しています。

有名タイトルを移植すれば売れると思っていたアタリは1982年に『パックマン』を移植し、本体の販売台数よりも多い1,200万本も製造するというかなり強気な行動に出ます。

『Atari 2600』の販売台数が1982年末の累計でやっと1,000台を超えているので、計画時点からかなりやばい量を生産しようとしていることがわかります。

結果、『パックマン』は700万本ほど販売しましたが、400万本以上の在庫を抱えてしまいました。

さらに、人気映画『E.T.』に高額のライセンス料を払ってゲーム化することをワーナーが決めます。

普通は5〜6か月で開発するのですが、クリスマスの商戦に間に合わせようとしたため開発期間6週間しかありませんでした。

なんとかクリスマスに間に合わせましたが、説明書を読まないとプレイが難しく、「E.T.のライフが尽きるとエリオットと融合して蘇る」という謎仕様まである状態で発売したため、『E.T.』は史上最悪のゲームと呼ばれるようになります。

それでも100万本ほど売れましたが、600万本製造しておりかつ高額なライセンス料も払っていたため大幅な赤字となりました。

アタリの好調だった業績が一転して急激に悪化したため、ワーナーの株価が大幅に下落してしまいます。

この暴落が『アタリショック』です。(『アタリショック』はゲーム市場の崩壊を指すこともあります。)

アタリの在庫処分による値崩れが起きており、最初は50ドル近くで販売されていた『E.T.』も最終的には2ドルで投げ売られる事態になり小売も大きなダメージを受けます。

さらに、利益を求めて多くのソフト会社が参入して品質の悪いソフト(クソゲー)が蔓延したこともあり、1983年のアメリカにおける家庭用ゲームの市場規模は前年の30分の1まで縮小します。

1984年にアタリは売却され、マテルも電子部門を売却、コレコは倒産と収益性が悪化した家庭用ゲーム産業は崩壊して姿を消していきます。

任天堂がファミコンを米国市場に投入するまでは。

第2回に続く

参考

Computer Space and the Dawn of the Arcade Video Game

IGN PRESENTS: THE HISTORY OF ATARI

Pong Was Never Intended For Public Release

アタリ創業者ノーラン・ブッシュネル独占インタビュー。挑戦するなら「まずはやってみること」

米国におけるビデオ・ゲーム産業の形成と急激な崩壊 ―現代ビデオ・ゲーム産業の形成過程(1)―