シェア5%のセガが任天堂に勝利!王座を奪うもお家騒動で転落するまで【アメリカ家庭用ゲームの歴史③】

シェア5%のセガが任天堂に勝利!王座を奪うもお家騒動で転落するまで【アメリカ家庭用ゲームの歴史③】

前回は崩壊したゲーム市場を任天堂が復活させるところまでまとめました。


今回はシェア5%しかなかったセガが王者ニンテンドーからシェアを奪うも転落するまでです。

セガは前身となる会社が1951年にジュークボックスの輸入・販売を目的として創業され、1983年から家庭用ゲーム機に進出しています。

任天堂、ソニーと並ぶ3大家庭用ゲームハードメーカーとして、『メガドライブ』や『セガサターン』『ドリームキャスト』などのゲーム機を製造していましたが2001年にゲームハードから撤退しました。

2004年にサミーと経営統合してセガサミーホールディングスを設立しています。

1989年にファミコンより優れた16ビット機『ジェネシス』を販売するも35万台と大ヒットにはならず

アメリカでの家庭用ゲーム機販売の拠点としてセガ・オブ・アメリカが1986年に設立されます。

1986年はニンテンドーがアメリカで売上を伸ばし始めた頃で、セガはアメリカ版ファミコン『ニンテンドーエンタテイメントシステム(NES)』に対抗して『セガ・マスターシステム』をリリースしますが全く勝ち目はありませんでした。

同じ8ビットのゲーム機でダメなら市場を変えるしかないと、マスターシステムをあっさりと切り捨てて16ビット機に集中します。

1989年にファミコンの倍の性能をもった家庭用ゲーム機『ジェネシス(日本ではメガドライブ)』を販売開始します。

初年度に100万台という売上目標を掲げていましたが、販売台数は35万台程度と大失敗とも大成功とも言い堅い結果となりました。

ニンテンドーがシェア90%を握りセガは5%ほどという状況が続きましたが、セガはこの状況を変えるべくトム・カリンスキーをセガ・オブ・アメリカのCEOにします。

カリンスキーはマテル時代に人気が落ちていたバービー人形を大ヒット商品へと育てあげた人物でした。

王者ニンテンドーに挑むために、大ヒット作品になりそうな『ソニック』をあえて無料で本体につけることに

セガはニンテンドーに対抗するためのキャラクターの社内コンテストを日本で行なっており、青いハリネズミが選ばれました。

青いハリネズミ「ソニック」は鋭い牙を生やし、トゲ付きの首輪をつけた悪党面で、もしマリオと直接会うことがあれば確実に倒せそうなキャラクターデザインでした。(ちなみに、デザイナーはフィリックス・ザ・キャットの顔をミッキーマウスにつけたらソニックができたと言っています。)

このままではアメリカでは売れないと思ったカリンスキーのチームは手直しして日本に送り返したところ、元のデザインから大幅に変更されていたため日本のチームが反発しました。

この時、カリンスキーは日本本社とアメリカ法人の間に摩擦があることに気づきます。

なんとかデザインの変更が認められた後、開発初期段階の『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のデモを見たアメリカチームは大ヒット作になると確信します。

しかし、カリンスキーは『ソニック』を1本も売らない決意をします。

カリンスキーはアメリカでニンテンドーに勝つための3つの提案を日本の取締役会で行いました。

大きな収益を見込めそうな『ソニック』を無料で本体につけて差別化をはかるだけでなく、すでに3,000万世帯以上がNESを持っている中でジェネシスを買ってもらうために価格を189ドルから149ドルまで値下げするという内容です。

失う利益は本体が普及すれば後からソフトで徐々に取り戻せるし、ニンテンドーが新しく16ビットのゲーム機を投入しても高価な印象を与えることができます。

さらに、ニンテンドーが対象としている子供の層を奪うことを諦めて、それ以外の全ての層を取り込むことを目標とする内容も含まれてたいました。

これらの提案は取締役を激怒させましたが、日本本社の社長でありカリンスキーをCEOに招集した中山隼雄氏が承認しました。

『マリオ』と『ソニック』をプレイして投票してもらうプロモーションを展開。88%がソニックに投票

ニンテンドーに仕掛ける時は最初の一撃に全力を注ぎ込んで倒すつもりで、もし全力を出せないなら戦わない方が良いという方針で進めていました。

そのため、準備が整うまでは家電協会の見本市であるCES(Consumer Electronics Show)にソニックは登場させていませんでした。

1991年6月のCESでニンテンドーは16ビットの家庭用ゲーム機『スーパーニンテンドーエンタテイメントシステム(SNES)』を発表します。

セガも負けじとソニックを公表し、ニンテンドーの新しいゲーム『スーパーマリオワールド』と『ソニック』を並べて映像を流すという方法で展示しました。

『マリオ』と比較することで『ソニック』の方が圧倒的なスピード感を持っていることを強調したのです。

SNESの発売は9月なので、それまでにニンテンドーを切り崩すためのキャンペーンをしかけます。

「卒業したらジェネシス」というキャッチコピーでセガの商品は一段上のステージであることを印象付け、キャンペーン中にジェネシスを買うとサードパーティのソフトを一本無料で提供することにしました。

また、セガはテレビCMを流そうと考えましたがヒット番組の時間帯にCMを流すための予算がありませんでした。

そこで人気番組の時間帯にテレビCMを流すのではなく、人気番組を作ってしまう作戦に出ます。

10代の人気スターたちを集めた運動会のような内容で、一部のゲームにセガの『ソニック』を使った競技などを入れることでセガの商品をアピールする機会も入れました。

1991年当時はゲームの公式な発売予定日を発表する習慣はなく、ゲームが店頭に並ぶのは物流次第となっていました。

そのため、『ソニック』の華々しいデビュー日があったわけではなく、6月後半から7月前半にかけて徐々にあちこちでジェネシスの同梱版として販売されるようになりました。

この結果、1990年全体の販売台数(40万台)を超える50万台を1991年の夏だけで販売します。

さらに、セガはまだ発売されていないSNESよりジェネシスを買うように説得するために、全米30都市のショッピングモールを巡るツアーを企画します。

内容はSNESの『スーパーマリオワールド』とジェネシスの『ソニック』をプレイしてもらって、ユーザーにどちらが上かを投票してもらうというものです。

このモールツアーは10万人以上が参加し、その88%が『ソニック』を選ぶという圧倒的な結果となりました。

1991年末までにセガはジェネシスを160万台販売し、ニンテンドーのSNESの販売台数140万台を超えることに成功しました。

SNESの販売開始は9月だったため、単純にセガの勝利というわけではありませんがわずか5%に過ぎなかったセガのシェアは25%ほどまで拡大しました。

セガがついにシェア55%を獲得するも、日本とアメリカの方針の違いから『セガサターン』とともに共倒れ

ソニックブームが続くなか、1992年にはクリスマス商戦に向けて『ソニック2』を世界初の全世界同時発売という形で投入しさらに勢いを増します。

1993年には『モータルコンバット』という残虐な格闘ゲームの家庭用版がジェンシスとSNESで同時に販売されることになりついに直接対決となりました。

結果はジェネシス版がSNES版の販売数を圧倒し、ついにセガは55%のシェアを獲得して王者になります。

しかし、アメリカでは大ヒットとなった『ジェネシス』や『ソニック』ですが、日本ではそこまで売れていなかったことが日本本社とアメリカ法人の溝をより深めました。

カリンスキーは次世代ゲームの覇権を握るために、ジェネシスに続く32ビットのゲーム機をソニーと協力して開発していくように進めていました。

ソニーはかつて任天堂と提携してスーパーファミコンの周辺機器であるCD-ROMを開発していましたが、任天堂が他の会社と組んだことで提携を解消していました。

セガとソニーはともに日本の会社なので、あとは本社で合意が取れればというところまで進めましたが、3Dと2Dというゲーム技術の開発方針の違いにより合意に至りませんでした。

その結果、ソニーは自らゲームハード機を開発する道を選択して、少しずつサードパーティと契約を増やしていきます。

ソニーとの提携は叶いませんでしたが、日本では32ビット機『セガサターン』が開発され、さらにジェネシスを32ビットへとバージョンアップする周辺機器『ジェネシス32X』も開発しました。

ソニーの『プレイステーション』、セガの『セガサターン』、任天堂の『ニンテンドー64』と次世代機器への期待が高まるなか、1994年のクリスマス商戦でセガは『ジェネシス32X』を発売します。

セガサターンに向けて開発を見送ったサードパーティも多かったため、ソフトの種類は少なかったものの100万台の受注を超えるほどの好調でした。

しかし、これらは全て日本で生産されており、セガサターンにチップを優先して供給していたため40万台しか生産できませんでした。

一方でニンテンドーはSNESで3DCGを扱った『ドンキーコング・カントリー(スーパードンキーコング)』を発売して、6ヵ月で700万本以上の大ヒットとなります。

カリンスキーもジェネシスで対抗しようとしますが、日本では『セガサターン』が『プレイステーション』より販売台数が多かったことから日本本社が米国への導入を急かします。

日本本社の決定により、1995年5月に予定から4ヵ月も早められた『セガサターン』をアメリカで販売開始します。

しかし、9月を予定していたためサードパーティのソフトは供給が間に合わず、主力であった『ソニック』もなし、本体も十分な量が確保できていなかったため一部の小売でのみの販売といった状況が重なり販売数は伸び悩みます。

1995年9月に399ドルの『セガサターン』より100ドルも安い『プレイステーション』が販売されるとあっという間に販売台数を抜かれてしまいます

さらに、『セガサターン』に力を入れたい日本本社は10月に『セガサターン』以外のハードの生産終了を決定しました。

アメリカでは『セガサターン』への移行が十分に進まないうちに『ジェネシス』ユーザーが切り捨てられることになります。

こうして、セガサターン推しの日本とジェネシス推しのアメリカの方針の食い違いにより『ジェネシス』と『セガサターン』は共倒れとなり、ソニーと任天堂にシェアを明け渡すことになりました。


参考

書籍『セガ vs. 任天堂 ゲームの未来を変えた覇権戦争

Sony PlayStation sales exceed 100,000 units in first weekend