(前編の続き)
高校生まで勉強にやる気がわかなかったレイ・ダリオですが、大学に進学してからは大好きな金融を専攻することでパーフェクトな成績を残しました。
卒業後は順調にハーバード・ビジネス・スクールに進学したものの、2年生になったころに第一次オイルショック(1973年)が発生。
コモディティ価格は上昇し、株式市場は1930年以来の大暴落となりました。
ダリオは予見することができませんでしたが、大暴落の理由は明らかだと言います。
1960年代以来、アメリカ政府は金融緩和に積極的で、負債(借金)の総量は増え続けていました。
ところが、金とドルの兌換制が終わったことによりドルの価値は下がってしまい、資金の貸し手は価値が大きく下がったドルで返済を受けることになります。
こういったインフレ環境ではより多くの借金を借りて、たくさんお金を使う方がおトクです。
そして、1973年に中央銀行が突如として金融政策の引き締めを発表したのです。
行き過ぎたインフレを止めるための政策でしたが、これによって株式市場は暴落し、世界恐慌以来の不況となりました。
こうなると株式投資は儲からないということで、市場は徐々に「コモディティ」に注目するようになります。
前編で触れた通り、ダリオは大学時代からコモディティに興味を持って研究していました。
しかもハーバード・ビジネス・スクールのMBAを持っているわけですから、金融業界では文字通り引っ張りだこになります。
ダリオが卒業後に選んだのは「ドミニク・アンド・ドミニク」という中規模の100年の歴史を誇るブローカレージ・ファームで、コモディティ分野のディレクターとして年間2.5万ドルの年俸を払いました。
当時の1ドルは現在の5.5ドルに相当しますから、初年度から日本円にして1,500万円以上の年俸を受け取っていたことになります。
当時のハーバード・ビジネス・スクールの卒業生の中でもトップレベルに高い給与水準だったそうです。
ダリオはドミニク・アンド・ドミニクでコモディティ部門の立ち上げをシニアメンバーとともに任されます。
1974年には中央銀行が金融緩和に乗り出し、株式市場もようやく底をついて反転。
その当時、25歳かそこらだったレイ・ダリオは、ハーバード・ビジネス・スクールの卒業生とパーティを行なったり、女の子とデートしまくっていたそうです。
そんな中、友人の彼女の友達としてスペインからきたバーバラという女性と付き合い、2年ほどの交際期間を経て結婚。
彼女ははじめ、英語がほとんど喋れなかったそうですが、ダリオいわく「言葉以外の方法でコミュニケーションをとったから大丈夫だった」そうです。
会社ではコモディティ商品の売買を仲介しながら、ダリオは自分自身の資産でもトレードを行なっていました。
やがてドミニク・アンド・ドミニクが小売部門を閉鎖したことにより、ダリオはより大きなファーム(シアソン)に転職します。
そこではやはりコモディティ先物などを担当し、コモディティの価格変動についてリスクを抱えるクライアント向けに先物を使ったリスク低減を支援していたそうです。
ダリオはウエストテキサスやカリフォルニアの農村地帯に何度も足を運び、穀物と家畜についてとても詳しくなりました。
シアソンでの仕事は1年ちょっとしか続きませんでしたが、ダリオは牧場主や穀物ディーラーと仲良くなり、地方の安酒場やハト狩り、バーベキューなど色々なことを教えてもらったそうです。
今は賢人風になっているレイ・ダリオですが、当時はクライアント向けの年次報告会でストリッパーを雇って報告中に服を脱がせたり、上司の顔のど真ん中にパンチを入れるなど、大企業で働くにはワイルド過ぎました。
しかし興味深いことに、他のブローカーやクライアント、そしてダリオを解雇した人物でさえも彼のことを気に入り、継続的にアドバイスを求めました。
彼らは、ダリオのアドバイスに対してお金を払うとまで言ってくれ、それならということで1975年に創業したのがブリッジウォーター・アソシエーツです。
実際には、ブリッジウォーターという会社自体はハーバード・ビジネス・スクールを卒業した時に友人とともに設立していました。
そこではアメリカ国内のコモディティを海外に販売するというビジネスを行なっており、「海(水)に橋をかける」ということでブリッジウォーターという名前にしたそうです。
1975年には会社として本格的に動いてはいなかったものの、箱(法人)が既にあるからということでそのまま始まったようです。
1949年生まれなので、26歳の時のことです。
ブリッジウォーターは、ルームシェアをしていたHBS時代の友人から部屋全体を譲ってもらい、ベッド二つのアパートで本格始動しました。
一緒にラグビーをしていた友人とアシスタントの若い女性を雇い、企業向けにマーケットリスクに関するアドバイス業を開始。
その傍らで、ダリオ自身は自己勘定による取引も続けていました。
1977年にはバーバラと結婚。
ちょうどロシア人(のトレーダー)が多くの穀物を買い集めていており、ダリオにアドバイスを求めたため、ハネムーンを兼ねてソ連に渡ります。
このように、レイ・ダリオにとって楽しかったのは仕事における色々なクライアントとの関係であり、そこでのユニークな体験でした。
それによって大金を稼いだとしても、彼にとってそれは「ケーキの上の砂糖菓子」にしか過ぎなかったそうです。
ダリオが、株式よりもコモディティ(商品)に魅力を感じたのは、コモディティの方がはるかに「具体的」で、価格の歪みが長続きしなかったからです。
株式の場合、愚かな投資家が(実態の価値以上に)買い続ければ、どこまでも株価が上がり続けたり、あるいは下がり続けたりということが長く続いてしまいがちです。
ところがコモディティの価格は「消費者がいくら支払うか」に収斂していきますから、論理性・法則性を重要視するダリオにとっては魅力的だったようです。
家畜はとうもろこしを食べるし、とうもろこしの生産量は土地の大きさや雨量によってある程度、予測することができます。
そのような相関関係を理解し、予測可能なモデルを作り込めば、実際に市場に運ばれる豚肉や穀物の量を予測することができます。
ダリオにとって農業・畜産業は「論理的な因果関係によって成り立つ美しいマシン」のように見えたとのこと。
モデル作りは最初はメモ書きのようにして始まり、その後はコンピューター・プログラムにまで落とし込んで実用化していったそうです。
ヒューレット・パッカードの計算機を使い、色鉛筆でグラフに描き出し、あらゆる取引をノートに記録しました。
ダリオ曰く、その計算モデルは非常にシンプルなものだったそうですが、お金を稼ぐには十分なもので、徐々に改善していったとのこと。
こうした活動を行う中で、ダリオは世の中のあらゆる「市場」は「需要」と「供給」の中で動く「マシン」として定義できることに気がつきました。
ものごとの「原則」を理解し、それをコンピューターモデルに落とし込んで、コンピューターに意思決定させる。
これがダリオにとって考え方の基本となっていきました。
当初はクライアント向けに助言だけを行なったブリッジウォーターですが、徐々にクライアントからお金を預かって代わりに取引を行うようにもなりました。
クライアントの中には、アメリカ国内で随一の牛肉の仕入れ手である「マクドナルド」や、鶏肉の仕入れ手として大手の加工者だった「レーン・プロセシング(その後タイソン・フーズによって買収)もいました。
彼らのお金を預かって取引を行い利益を生み出す中でこのようなこともありました。
マクドナルドが新商品「チキン・マックナゲット」の提供を検討していた時のことです。
マクドナルド自身は、鶏肉の価格が上がることを恐れてナゲット商品の投入を躊躇していました。
それは生産業者であるレーン・プロセシングも同じで、価格変動リスクを考えると鶏肉を固定価格で売ることは危険です。
レイ・ダリオはこれら二者のリスクを低減するために、鶏肉生産のモデルをシンプルに考えました。
鶏肉の生産量は、鶏とエサの量によって決定します。
つまり、生産者はエサの値段にだけ気を配っていればよく、ダリオはコーンと大豆の先物を混合して取引することでリスクを低減するモデルを提案します。
これによってレーン・プロセシングはマクドナルドに対して鶏肉を固定価格で販売する契約を結ぶことができ、その結果として1983年にチキン・マックナゲットが市場に投入されたのです。
そのようにして、レイ・ダリオとブリッジウォーターは社会での評判を獲得していきました。
1981年には「次なる恐慌の全貌」と題した文書を書き、「1930年代の恐慌よりもさらにひどい恐慌が来るだろう」と断定。
内容が内容ですから、この文書は多くの人から注目を集めます。
いつの時代も、危険を大げさに書き立てるオオカミ少年はいるものですが、レイ・ダリオは1800年代まであらゆる恐慌の事例を研究しています。
ダリオ自身、「アメリカは新興国にお金を貸しすぎており、それが次の恐慌の引き金となる」という考えに絶対的な確信を持っていました。
周囲の人に批判を求めても、論理的にはそれは非の打ちどころがなく、ダリオはますます確信を深めたのでした。
1982年にはメキシコがデフォルト(債務不履行)に陥ります。
レイ・ダリオの予見が当たりはじめたということで、当時マーケット関係者のほとんどが観ていたテレビ番組にも出演し、「私たちは恐慌に向かっている」という自説を展開しました。
ところが、この状況への打開策としてアメリカ中央銀行が現金の流通量を増やすと、状況が変わり始めます。
株式市場は大きく上昇したのです。
しかし、ダリオはこのことも「最後の悪あがき」くらいに認識しており、実際に1929年にも大暴落の直前に15%も回復した事実がありました。
仮に政府の打開策が景気を刺激することができたとしても、インフレを伴ってしまう結果になる。
そう考えたダリオは、金(ゴールド)とT-ビルを買い込んで事態に備えていました。
ところがマーケットはその後も回復を続け、しかもインフレは起こらなかったのです。
アメリカ経済は歴史上で最大の経済成長を、インフレなしで体験することとなりました。
レイ・ダリオは景気後退に大きく賭けていましたから、従業員の給料を支払えないほど大きな損失を抱え込んでしまいました。
結果として従業員全員を解雇し、資金繰りのために父から4,000ドルを借りなくてはならないほど追い込まれます。
ブリッジウォーターはレイ・ダリオ1人だけの会社になってしまい、妻も子供もいるため「またスーツを着てウォール街で働くべきか」と考えもしたそうです。
しかし、それはダリオが望む人生ではありませんでした。
(後編へ続く)
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