(前編の続き)
ダイソー創業者・矢野博丈氏は、「矢野商店」のチラシを住宅ポストに入れては、販売場所を確保しての移動販売を続けていました。
商売を大きくするつもりはなく、生き残ることだけを第一として「夫婦げトラック一台・年商1億円」を生涯の目標に掲げていたくらいです。
ある日、矢野商店の気配をかぎつけた女性たちが、チラシを手にして開店前から並んでいました。
「早くして!」と急かされた博丈氏が急いで荷下ろしをすると、商品を並べる前から勝手にダンボールを開けて商品を探し始めたのです。
「これ、いくら?」と聞かれたものの、商品の数が多いためすぐには分かりません。
しかしお客さんを待たせるわけにはいかないと焦った博丈氏は、思わず「100円」と返したそうです。
他の客も博丈氏に聞いてくるので、全部「100円」と返すと、商品が次々に売れていきました。
このようにして博丈氏は、商品を100円均一で売るようになったそうです。
値札を付け替える必要がなくなるということで、その後も100円均一で商品を売るようになりました。
ところが、始めはあまりうまくいかなかったそうです。
1973年には石油ショックもあり、商品の原価がどんどん上がっていきました。
小売業の変化とともに移動販売は急速に廃れ、かつての同業者はほとんどが廃業しました。
100円均一の矢野商店は値上げができないため、仕入れ原価が上がると商品の質を落とさざるを得ません。
店頭でお客さんから「安物買いの銭失い」という言葉を1日に3回も聞くようになります。
博丈氏は「どうせ儲からないし、いいものを売ってやる!」と開き直り、利益を度外視して原価を思い切って上げてしまいました。
原価を70円に抑えるべきところを80円に上げ、時には98円のものを100円で売ったのです。
すると、客の目つきが変わってきて「これも100円!」と驚く様子を目にすることが増えます。
儲けることよりもそっちの方が楽しいと感じた博丈氏でしたが、これによって客が増え、同業者の中で一番売れる店になってしまいました。
あるとき、売る場所を確保しようということで広島の大手スーパー「イズミ」に話を持って行きます。
100円均一がいかに人気があるかを語り、店頭で販売させてほしいと訴えると、それは面白そうということで許可を得ます。
すると3日間で330万円を売り上げる大記録を達成。
それまでは1日50万円売れればいい方でしたが、場所がよかったことで1日100万円以上売れるようになったのです。
年間4億円ペースですから、この時には「年商1億円」の目標はとっくに達成されていたことになります。
イズミの担当者は非常に喜び、総合スーパーのニチイにも展開。
その後、大阪で人気のあった「ニューワールド」「神戸雑貨」などの100円均一業者が広島に進出してきたことで、売り場を乗り換えられます。
ところが、原価ギリギリで勝負していた矢野商店とは違い、大阪の業者は安物を販売していたため、博丈氏の3分の1もお客を呼べませんでした。
結果としてイズミもニチイも矢野商店を呼び戻すことに。
この頃になると事業は順調に回り始め、東京のイトーヨーカドーからも出店の依頼がくるまでになります。
東京へ行っても博丈氏の100円均一は他とは違っていました。
多くの業者が、原価が20円程度の品物を混ぜているのに対し、博丈氏は原価をギリギリまで上げていたわけです。
原価率を上げるとともに、他店よりも2倍、3倍もの商品を並べることで、お客さんに商品探しという楽しみも提供。
1977年、占い師のもとを訪ねた博丈氏は、「矢野商店という名前を変えたい」と相談に行きます。
「3画と12画の漢字にしたら、いい名前になる」と言われ、「大創」という文字を考案。
こうして「大創産業」が生まれ、株式会社化されました。
株式会社化したあとも事業は伸び続け、勢いのあったダイエーでも店頭販売するようになり、売上は順調に伸びて行きました。
それでも1987年までは4~6畳のプレハブ事務所を使っていたそうです。
この頃になると大創産業の課題は、「移動販売からいかにして脱却するか」になっていました。
各地で100円販売をして回っていたものの、本当に売れる場所というのは限られています。
ところが、固定で販売していたらやがて飽きられてしまうかもしれない。
博丈氏は、「お客さんが飽きない出し物をすればいい」と考え、手芸品を使った催し物や、アイデア商品や高額腕時計の販売など、色々なアプローチを試しました。
ところがあるとき、ダイエーの中内功オーナーから呼び出されると、「催事場が汚くなるから、100円均一は中止する」と言われてしまいます。
当時は6割もの商品をダイエーに卸していたため、大打撃です。
博丈氏はどうしたらいいかと考えた結果、「ダイエーの客が通りかかるところに店を出そう」と考え、ダイエーの近くに店舗を出店。
このようにして100円ショップの常設店舗が始まったのです。
その後も部長に売上金を持ち逃げされたり、東京にいた社員が造反して別会社を作るなど苦労はたえず、博丈氏はつねに「倒産」を覚悟していたそうです。
逆境が訪れるたびに「成長などしなくていい、会社はただ生き残ればいい」という考えを強め、そのことが「顧客第一主義」につながり、結果として会社を成長させたのですから不思議な話です。
大きく会社が成長した今になっても、博丈氏は「自分に能力がなかったから、ここまでこれた」と考えているそうです。
100円均一という業態は価格が決まっているため、簡単に儲かる商売ではありません。
だからこそ大手資本が参入してこず、バブルの時代にも見向きもされませんでした。
博丈氏は、一つの商品を仕入れる際には100万個を買うように厳命していました。
大手資本のほとんどは在庫を抱えることが嫌います。なおかつ、メーカー側も100万個を一気に生産することは難しく、例えば10万個ずつなど小分けにして発送することになります。
生産が間に合わないため、結果として大手資本が発注することもできなくなるというわけです。
実際に、ダイエーがかつて展開した88円ショップはうまくいきませんでした。
右肩上がりの成長を続けてきたダイソーですが、周囲からも「ダイソーはいつか潰れる」と言われ続け、博丈氏自身もそのように言い続けてきました。
あるときは世話になっていたイトーヨーカ堂の伊藤名誉会長から電話がかかってきて、「大丈夫か?金がないなら貸してやるし、株式でもいいぞ」と心配されるほど。
それでも2000年には「ベンチャー・オブ・ザ・イヤー」を受賞し、2001年には資本金を27億円に増資。
この頃には「台湾出店」に向けたプロジェクトが動き出しています。
前述した通り、博丈氏自身は会社を大きくすることへの興味はなかったと言います。
ところが、台湾出身の実業家で直木賞作家でもある邱永漢氏が「台湾で100円ショップをやりたい」と猛アピールして売り込んできたのです。
博丈氏は何度も断ったそうですが、それでも邱永漢氏は諦めませんでした。
運営は邱氏に任せるという条件のもと、合弁事業として5億円を出資。
商品価格が一律50台湾元のショップをオープンすることに。
ダイソー進出のニュースは、テレビや新聞などが派手に報道したことで台湾中に知れ渡り、早朝から行列ができるほどの混雑となります。
ところが現地の経営陣は、現場での作業を嫌いました。
ダイソーでは、経営陣も倉庫で作業して、その中で商品を覚えながら次の企画につなげていくという文化があります。
台湾一号店は話題になったもののうまくいかず、邱永漢氏が経営から手を引いて直営に移って黒字化するまで結局7年かかりました。
2001年9月には韓国、2002年3月にはシンガポールにも進出。こちらはスムーズに成功したようです。
海外展開がうまくいったことで各国の企業から「うちもダイソーをオープンしたい」という誘致の申し込みが殺到。
アジアやアメリカ、中南米、中東まで規模を拡大することになります。
現在では26か国で1,992もの店舗を海外で展開しています。グループ全体で5,270店舗ですから、実に4割近くは海外ということになります。
ダイソーのホームページによると「出店ペースは落としたいのだが、国内外からのデベロッパーからの出店要請が相次ぎ、思うように減らせない」とのこと。
これまで長々とダイソーの歴史について見てきました。
前述したように、ダイソーがここまで躍進した大きな要因は「儲けを捨てて、薄利多売に徹した」ことに尽きます。
粗利益を削って原価を100円ギリギリまで高めることで、他の100円ショップにはできない業態を作り上げました。
そして今、世界で5,270店舗を数えるダイソーには、他社には決して真似できない超強力な堀(競合優位性)ができあがっています。
ダイソーは、一つの商品を100万個あるいは1000万個という尋常じゃないレベルで大量に仕入れます。
だからこそ、他の会社には真似できないほど高品質な製品でも100円で提供できる可能性が生まれるわけです。
そして、一つのメーカーに大量の発注をかけるわけですから、そのメーカーにとってダイソーの存在は大きくなります。
博丈氏が「仕入れは格闘技」と豪語するように、メーカーとの商品開発には大きな力を入れており、そのことがユニークな商品開発にもつながっています。
今では扱う商品の99%が自社開発商品であり、バイヤーとメーカーが10回以上も企画会議を行なった上で商品が完成するそうです。
また、メーカーの製造ラインを独占できるという点も見逃せません。
そもそも大量発注じゃないと成立しない商品ですし、1000万個の商品を一度に生産できるメーカーは無いそうで、10万個ずつなどのように小分けにして発送されることになります。
つまり、その間はそのメーカーの製造ラインに他の企業が入り込む余地は無くなってしまいます。
その結果として、ダイソーの商品のユニークさというものが保証されることになるのです。
いまや7万種類もの商品を扱っているというダイソー。大富豪となった博丈氏ですが、自宅は質素なものだと言います。
毎日、帰宅は夜の12時過ぎで、「自分には能力がないのに、こんなに大きな会社にしてしまって申し訳ない」とよく言っているそうです。
よく、「人間は思い描いたもの以上にはなれない」としたり顔で言う大人がいますが、ダイソーは大きな目標もなくここまで大きくなってしまいました。
成功の形は一つだけではないなと考えさせられました。