歴代トップからみる三菱商事の歴史

三菱初代:岩崎彌太郎

三菱商事の歴史は、三菱財閥の創業者・岩崎彌太郎の生涯にまでさかのぼる。

彌太郎は1835年に土佐の貧しい地下浪人として生まれたが、吉田東洋の門下に入り土佐藩の経済官僚となった。

1868年には土佐藩士設立の九十九商会を監督を頼まれ、廃藩置県後に経営を引き受けることになる。1873年には船旗の3つの菱形にちなんで「三菱商会」と改名。海運事業を中心に、炭坑や金融、倉庫業など事業を拡大した。

三菱二代目:彌之助

彌之助は彌太郎の16歳下の弟。単身でニューヨークに留学ののち、22歳で副社長として三菱商会に参加。高島炭坑の買い取りの際には破断寸前の中、彌太郎を説得して買収。その後、炭鉱事業は三菱最大の事業となって大きな収益をもたらした。

社長に就任すると、経営の中心に鉱業を据えた。1888年に三池炭鉱の入札で三井に負け、やむなく筑豊に目を転じ、中小炭鉱を次々買収。最新の技術を導入した。

また、1899年には陸軍省から丸の内の陸軍用地の買取を懇請され、「国のために引き受けましょう」と決断。荘田平五郎と末延道成が「ロンドンのようなオフィス街」の建設を提案し、丸の内にオフィス街を建設することとなった。

彌之助は、彌太郎の遺言通り、久彌が育つまでのピンチヒッターとして自らを据えていたため、42歳で社長を交代した。

余談だが、岩手の小岩井農場は1891年にヨーロッパ農法による本格的な農場建設を夢見た日本鉄道会社社長・小野義真、岩崎彌之助、鉄道庁長官・井上勝の3人の頭文字をとって命名、1899年に岩崎久彌が農場経営を継承した。

三菱三代目:岩崎久彌

久彌は岩崎彌太郎の長男で、明治維新の3年前に生まれた。慶應義塾及び三菱商業学校で学び、1886年米国に留学。ペンシルベニア大ウォートンスクールで財政学を学んだ。

1893年、合資会社に改めた三菱社の社長に28歳で就任。収益の大半を鉱業部門があげる中、長崎造船所の近代化を図り、神戸と下関に造船所を建設。丸の内にオフィス街を建設して不動産業に乗り出し、銀行・商事部門も成長させ、麒麟麦酒などの創業にも参画。

1908年には各事業部門に権限委譲を断行し、彌太郎以来の「一切のことは社長の特裁を仰ぐべし」というワンマン体質から近代的マネジメントシステムへの脱皮を図った。

三菱四代目:岩崎小彌太

四代目社長となる小彌太は1879年に彌之助の長男として生まれた。1899年に帝国大学に入学し、卒業を待たずに英国・ケンブリッジ大学に留学。政治経済学などを学んだ。

帰国すると、14歳上の従兄弟である久彌を補佐する副社長として働き、36歳で社長の座を譲り受ける。その時の幹部には父・彌之助が設立し、中学生の頃に寮生として過ごした「潜龍窟」時代の仲間が多くあり、闊達な議論をすることができた。

1916年、社長に就任すると各事業部を三菱合資会社のグループ企業として独立させるという改革を進め、この中で旧三菱商事や三菱重工業などが誕生。

1945年、日本の敗戦によりGHQが財閥本社の解散を要求。その中で三菱だけが「恥ずべき点がない」と抵抗するも、小彌太の入院中の株主総会にて本社解散の手続きを受け入れた。

新生三菱商事の発足(1956年)

解散後、部長だったものが2名以上いてはならないなどの規制の中、多くの社員が新会社設立を図り、その数は百数十社にまで拡大するも、戦後の厳しい経済状況の中、多くが倒産や吸収合併された。

1950年、旧三菱商事の商権継承が認められ、光和実業が設立。GHQによる雇用制限緩和も発表され、三菱商事再建が始まる。新会社が集約されていき、1952年には不二商事、東京貿易、東西交易の3社に。1954年、光和実業から改称した三菱商事と合わせて4社が合併し、新生三菱商事が発足。高垣勝次郎が初代社長に就任し、岩崎小彌太が発意した「三綱領」を社是として採用。

日本ではその後、例を見ない好況だった「神武景気」が訪れ、業績を順調に拡大。

高垣勝次郎社長(1956-1960)

高垣勝次郎は発足と同時に海外拠点の整備を進め、中南米、欧州、中東、アジアなど14カ所に駐在員を配置。1960年には51カ所にまで拡大。在任中の6年間で輸出の拡大にも尽力した。

荘清彦社長(1960-)

1960年、副社長から社長に就任。4年後の東京オリンピックに向け、高度経済成長が始まろうとしていた。このころ、学者やジャーナリストの間で「商社斜陽論」が議論されていた。メーカーが力をつけ、独自の販売網を持つようになると、商社は必要なくなるという考えだった。

しかし、実際には高度経済成長の波に乗り、東南アジアなどへのプラント輸出、海外の資源開発といった長期プロジェクトが拡大。技術力を背景に世界各地で大型の契約を次々と獲得した。

1963年には国内初の「取扱高1兆円企業」に。規模の急拡大に対応するため、経営の近代化施策としてコンピュータによる事務の効率化に着手、EDPシステムの導入や通信ネットワークの充実などを展開した。

藤野忠次郎社長(1966-1974)

1960年代に事業を大きく拡大させたことで、1966年に初の中期営業計画づくりに着手した。藤野社長は「安定した経営を維持しながら、しかも積極的に、かつ計画的に将来の成長発展に向かって、絶えず生き生きとした活力に満ちた活動を続ける優良企業」というビジョンを語った。

計画づくりでは、部や拠点ごとに要望事項と3カ年計画を提出させ、それをベースに全社目標を設定。成長分野である重化学工業部門の比率を70%以上に高めるなど、単年度目標では困難だった重点目標を明示した。藤野社長は社員とのコミュニケーションも重視し、若手・中堅社員と対話する社長懇親会も開始した。

1969年、シェルと三菱商事が45%ずつ、ブルネイ政府が10%出資する「ブルネイLNG」設立の合弁契約を結んだ。450億円にものぼる、当時の資本金よりはるかに大きな巨額プロジェクトに参画。

その他にも海外での資源開発事業に積極的に参画した。

しかし、1971年ニクソン・ショック(米ニクソン大統領による新経済政策)や1973年の第一次オイルショックにより、「狂乱物価」と言われる物価高騰が日本に到来。消費者の怒りの矛先が商社に向けられた(1974年度の三菱商事の売上高は9.4兆円だった)。

田部文一郎社長(1974-1980)

1974年に田部文一郎社長が就任し、産油国との好関係の維持を目指し、石油関連資材や発電プラントなどの輸出に注力する一方、サウジアラビアでの石油化学事業に投資。原油依存型経済からの脱却を目指す同国の石油鉱物資源公団からの協力要請により、「サウディアラビア事業推進本部」を設置。三菱油化や三菱石油(現:JX日鉱日石エネルギー)と共に検討を開始。

しかし、2年にわたる調査・検討の結果、76年8月に計画の延期を申し入れ、サウジアラビア側はこれを不服とし、日本政府を巻き込んで実現を主張。日本政府は三菱グループにプロジェクト推進を強く働きかけ、翌年5月にナショナルプロジェクトとして進展、81年にSHARQが設立され、現在は世界中で石油化学製品が販売されている。

三村庸平社長(1980-)

1980年6月、前年秋まで米国社長を務めていた三村氏が社長に就任。2度のオイルショックで経済が低迷する中、高度な技術を要する加工組立産業が躍進するなど、産業構造の変化が進んでいた。

その中、三村社長は利益重視の目標管理を徹底、業務の効率化を支持し、1982年には「レインボー作戦」を展開。

「レインボー作戦」では、間接部門の人員を2割削減するというトップダウンの施策と、全社員が業務効率化の具体的な提案をするというボトムアップ型を両方推し進めた。

日米貿易摩擦など多難な中、米国向け製鉄プラントや産油国向け発電プラント、サウジアラビア石油化学プロジェクトの本格化など、海外事業で大きな成果を得る時期でもあった。

参考URL:http://www.mitsubishicorp.com/jp/ja/mclibrary/roots/