明治時代に活躍した1人 後藤新平

明治時代には多くの活躍した人の名前が上げられよう。後藤新平は明治時代から昭和初期にあらゆる分野で活躍した医師、政治家である。

1857年に仙台生まれで、医者として活躍し、実績を認められ日本の台湾統治時代に41歳でナンバー2として台湾の発展に貢献したと言われている。

1909年の52歳時に南満州鉄道の初代総裁に就任し満州のインフラ整備に従事した。1923年の関東大震災後の復興に貢献した人物である。 


■板垣退助が刺された時の医者として従事 

幼少期は政治家を目指したとされているが、家族などの進めもあり地元の医学校へ進学。学校では猛勉強の結果成績優秀で卒業し医者となる。24歳で愛知県病院長になるなど、勤勉さと反骨精神で出世して行ったのである。

当時、自由民権運動に奔走し、全国を遊説してした板垣退助が岐阜で遊説中に襲撃に襲われる。この時に手当に当たっていたのが後藤新平である。板垣退助はこの時に後藤が政治家で無いことを残念がったという。

「個々の病人をなおすより、国をなおす医者になりたい」。と言葉を残し、内務省衛生局に入る。33歳で多額の借金を抱え、ドイツに2年間留学し、帰国後に内務省衛生局長に就任し、現在にも続く公衆衛生行政の基礎を築く事になる。


■台湾統治時代

1898年から8年間台湾総督府民政局長を努め、台湾の発展に貢献する。当時台湾は抗日ゲリラによる暴動と反乱が続いていた。

そこで後藤は軍部のトップの指示の言いなりにならず、力で抑えるのでは無く、職業を与える代わりに降伏する事を条件に、現地の人を巻き込んで抗日ゲリラによる弾圧の抑制に成功したのである。また当時の台湾が腐敗していた理由の一つがアヘンである。当時中国や台湾で多くのアヘン中毒患者が増えていた。

この事に対して後藤がとった方策は、アヘンをいきなり禁止してアヘン患者を減らすという方法ではなく、アヘン患者を認定制にしたのである。政府としてアヘンを予め大量に購入して、アヘン患者と認定された患者へ少し高値で販売し、利益が出るしくみを作ったのである。

これによって、いきなりアヘン患者からアヘンを禁止するのではなく、徐々にアヘン患者を減らし暴動や事件を抑制すると共に、アヘンの売却益で得た利益を別の医療システムへ回して行ったのである。

また当時後藤の元で働いていた新渡戸稲造が台湾での調査報告をした所、調査だけでなく新渡の意見を聞くなどしていたという。調査や数字による裏付けだけでなく、直感や肌感覚を大切にしていた人物だったようだ。


■関東大震災からの復興 〜医学をフレームワークにした都市づくり〜

 医師としての経験を得て、台湾での立て直しを図る経験をした後藤は、後に南満州鉄道の初代総裁としての経験もしているのである。

満州では台湾での経験を活かし、インフラ、衛生管理など当時の満州の発展に寄与している。現在の中国の東北部(当時の満州)は中国、ロシア、日本などの利権争いの中心となっていた事から、日本政府の主権の主張に対して、後藤は3国による利益の分配の方法を考えていた。

1923年、後藤が66歳の時に関東大震災が発生。関東の約 半分が焼け野原となり、10万人を超える死者が出た。 山本権兵衛内閣の元で震災の復興のリーダーシップを図る。しかし当時の国家予算の1年分となる予算が必要で、この予算取りには結果的には達成せず、当初計画を縮小せざるを得なくなった。

しかし縮小された予算ながらも計画は実行され東京から放射状に伸びる道路と環状道路の双方の必要性を強く主張した。今も残る、昭和通り、明治通り、靖国通り、隅田公園、浜町公園なども彼の計画のが元となっている。

 その後60年後に起きた太平洋戦争末期の東京大空襲の時に、当時の天皇は後藤の大規模な計画が実行されていれば、空襲の被害は少なかったのではないかと述べている。

 医学のフレームワークを使い、道路などのインフラを血管と捉え台湾、満州、そして東京の都市計画に大きく貢献した後藤新平は1929年に亡くなった。