戦争に翻弄されるも「B-29」で活路を見出したタカラトミーの歴史

本記事では株式会社タカラトミーの歴史について、簡単に振り返っていきます。

幼くして奉公に出された創業者  

タカラトミーの前身のひとつであるトミー。その創業者である富山栄市郎氏は1903年埼玉県で生まれました。  

実家の荒物問屋は裕福でしたが、日露戦争後の恐慌をきっかけに没落。栄市郎氏は9歳にして丁稚奉公に出され、家族と離れ離れに。  

最初の奉公先となった出版社の下請け会社では、仕事が深夜の1~2時までかかることもあり、9歳の少年にとっては大変な日々でした。

玩具作りの楽しさに目覚めた少年時代

しかし次の奉公先となった河野玩具製作所で、栄市郎氏は玩具作りの面白さに魅入られるようになります。  

休日になると古本屋の店先で海外の雑誌を読みあさり、玩具になりそうな船や飛行機の写真を探しました。そして部屋に戻ると、部屋に戻ってから図面を描くことに没頭したといいます。  

奉公先の親方から「実際に走るポンポン船(船の玩具)を作れないか」と持ちかけられたのは、栄市郎氏が若干12歳の時。休日も返上して玩具作りの研究を続けていた栄市郎の姿に、親方も大きな可能性を感じていたのでした。

栄市郎が試行錯誤を繰り返した末に完成したボートが、不忍池で無事に走った時には、親方と方を抱き合い、喜びを分かち合ったというエピソードが残っています。  

16歳にして「玩具界の王様になる」と啖呵

16歳の時には親方に代わって製作所を切り盛りするほどに。  

親方の代理で寄り合いに出席した際には「玩具界の発展のためには視野を広くし国内にも目を向けるべき」提言した上で、「自分はいずれ玩具界の王様になる」と啖呵を切るなど、スケールの大きさを垣間見せています。  

そして1924年。河野玩具製作所から独立し、東京の西巣鴨で、後のトミーとなる「富山玩具製作所」を創業したのでした。  

翌年1925年には、工場が手狭になったことから大平町(現在の墨田区大平)に工場を移転。この頃にはもう、栄市郎氏ひとりで全体を見渡せないほど事業の規模が大きくなっていたため、職人や従弟たちの中から長になる人物を決めて現場の指揮を任せる、権限委譲の経営手法を取り入れてました。  

その一方で栄市郎氏自身は、部屋にこもって図面を引いては木型作りに専念する日々を送りました。  

飛行機の富山として有名に

1925年、朝日新聞社の飛行機「初風」と「東風」が、日本ではじめての外国飛行へ発つと、玩具業界にも飛行機ブームが到来。富山製作所もこの流行に乗り、糸吊り旋回ゼンマイ複葉機「ブレゲー」を発売しています。  

プレゲーは天井から吊るした飛行機が、ゼンマイのプロペラによって旋回するという玩具だったのですが、機体を軽くするため、当時の日本では入手が難しかったアルミを使っていました。  

これが大ヒットを記録し、富山製作所は「飛行機の富山」としてその名を馳せました。

戦争により玩具を作れない日々

1938年。日中戦争が泥沼化する中で、金属玩具の製造が禁止されました。金属玩具を作るために必要な材料が、武器や弾薬の製造に回されたためです。これにより富山製作所は、500人いた工員を解雇せざるを得ませんでした。

そんな中でも栄市郎氏は玩具の制作を諦めず、木製玩具の開発に没頭。1941年発売した「歩く兵隊」はヒット商品に。  

しかしそれでも太平洋戦争が始まると、軍需産業への転身を余儀なくされ、いよいよ玩具を作れない日々が訪れます。栄市郎氏や、日本の玩具業界にとって、暗い時代でした。  

戦後、B-29からの再出発

終戦から6年後の1951年。

栄市郎が作成した図面には、第二次大戦中に日本を焼き尽くしたアメリカの爆撃機「B-29」の姿が描かれていました。  

仲間は驚きましたが、この図面には、日本の玩具の素晴らしさをアメリカの子どもたちに見せつけてやろう、玩具作りでアメリカに一矢報いてやろうという、栄市郎氏の強い想いが込められていました。  

当時の玩具といえば手のひらサイズが主流だったにもかかわらず、両翼の長さが39cmというスケール。更にかけそば1杯15円の時代に500円という破格の値段を設定したことからも、B-29が栄市郎氏にとって、どれだけ特別な玩具であったかを伺い知ることができます。  

このB-29は、国内外で爆発的な売れ行きを記録し、戦後トミーの再出発を象徴する商品となったのでした。  

タカラの創業

1955年。タカラトミーにとってもうひとつの前身となるタカラが、佐藤安太氏によって創業されました。  

1960年には「ダッコちゃん」がブームになり、1967年にはロングセラーとなる「リカちゃん」を発売。女児玩具の分野でトップに君臨します。  

1970年以降は「チョロQ」や「トランスフォーマー」など男児玩具の文やでもヒット商品を生み出し、特に2000年代初頭に大流行した「ベイブレード」は大流行しました。  

トミーやバンダイといった競合他社と切磋琢磨しながら、戦後の玩具業界を盛り上げてきました。  

合併によりタカラトミーが誕生

2000年代中頃。当時のタカラはヒット商品こそ出していたものの、ベイブレードブームが終わった反動で過剰な在庫を抱え込んでいました。また、自動車販売のノウハウがないにもかかわらず、チョロQを実車化するという試みを行い、これが大不振に終わるなど、幾つかの分野で失敗を重ねて、経営危機に陥っていました。  

一方でトミーは「ポケモン」や「ファービー」の関連商品がヒットしていましたが、自社ブランドによるヒット商品に恵まれない時期が長く続いていました。  

そんな双方の利害が合致し、2006年、トミーがタカラを吸収する形で両社は合併し、現在の「株式会社タカラトミー」が誕生しました。