「十五大財閥」はどのようにデカくなったのか!各財閥のルーツまとめ(前編)

「十五大財閥」はどのようにデカくなったのか!各財閥のルーツまとめ(前編)

第二次世界大戦後、GHQにより財閥解体を受けた十大財閥に五つの財閥を加え、これらを十五大財閥と総称します。 

現代企業の多くは、いずれかのグループに所属していることが多く、彼らのルーツを紐解く上で財閥の存在は免れられません。

今回のエントリでは十五大財閥のルーツやどのように大きくなったかについて、財閥解体以前まで、まとめていきます。

三菱財閥:海運業を起点に事業を多角化。大正以降は重化学工業路線へ。

三菱財閥は、土佐藩(現高知県)出身の岩崎弥太郎(1834~1885年)によって創設され、海運業を起点として事業を多角化していったことで有名です。 

創業者の岩崎弥太郎がはじめた海運業で明治7年(1874年)の台湾出兵を機に三菱は急成長、明治10年(1877年)には西南戦争にて軍事輸送を一気に引き受けたことにより、政商としての地位を確立します。

また、三菱は海運事業をおこなう中で荷為替金融をおこなっていました。

荷為替金融というのは、顧客が荷物を担保に融資を受けられるというもので、海運業における顧客サービスの一環でした。

1880年には、金融業を開始し「三菱為替店(現 三菱UFJ銀行)」を設立。

1885年に弥太郎が亡くなると、弟の「弥之助(2代目)は海運業から手を引き、海運以外の事業へと多角化を進めていきます。

明治時代初期の船舶燃料が石炭だったこともあり、1881年に高島炭鉱(現 三菱マテリアル、三菱ケミカルホールディングス)の買収も行なっています。

また、江戸幕府により設置された長崎造船所は、1884年に三菱に貸し出され、1887年に三菱へと(現 三菱重工業)払い下げられています。

それまでは船舶修理中心だった長崎造船所に積極投資をおこない、世界水準の造船所へと成長させたのも弥之助でした。

1893年、弥之助は三菱の事業を会社形式に整えて「三菱合資会社」に集約し、「久弥(3代目)」に社長を譲ります。

1916年に岩崎小弥太(4代目)が就任、彼が三菱合資会社の各部門を事業会社にしていきました。

4代目の小弥太が「三菱合資会社」における、造船部を分離して三菱造船を設立。

1918年には営業部を分離して「三菱商事」を設立しており、1919年に三菱銀行を設立しています。

三菱グループの中でも、社名に「三菱」がつかない企業としては「東京海上日動火災保険」やカメラの「ニコン」などがあります。

1881年に渋沢栄一により創設された「東京海上火災」に対して、岩崎弥太郎は出資しています。

海運業と密接な関係のある保険業に弥太郎は出資しており、弥太郎が筆頭株主となったことで、同社は三菱色の強い企業となっています。

また、第一次世界大戦中、ドイツからの光学機器輸入が途絶えた時、三菱造船が潜水艦を建艦していました。

そこで、潜水艦の潜望鏡を三菱グループで開発するために「ニコン」が創業されました。

キリンホールディングスも三菱グループであるため、三菱グループの飲み会ではキリンのビールしか飲まないと言われたりもしています。


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